神官長となった俺には、それまで以上の激務が待っていた。毎日のように机の上に積み上げられる大量の書類、そして求められる意見。

 だが、その忙しさの中で確かに……失った辛さを忘れつつあった。

 そして、それ以上に大変だったのが華煉……

 相変わらず、近寄るだけで言葉にならぬ声をあげ逃げようとする少女に近づくことすらできず、空虚な時間だけが過ぎていく。

それでも、願わくば……少女の心を少しでも癒したいと思えた。それが俺の内にある聖職者としての想いだったのかどうかは、今でも分からない。恐らく……二度と答えが出ることはないだろう――

永遠と思えるほどの多忙な日々。そして、多くの出会いの中……俺は確かに変わっていっていた。

 

「ゆず、今晩一緒にのみに行こうよ」

 ある日……ノエルが、俺にそんなことを言ってきた。一瞬何を言っているのかがわからず、聞き返した俺にノエルは繰り返す。

「だから、二人でお酒のみに行こうって言ってるの」

「あの……ノエル様、僕は未成年なんですけど?」

「様はいらない!」

 こちらの質問には答える気がないのか、まったく関係のないところで抗議をしてくる姿は、平素“氷壁の神官長”などと呼ばれている彼女からは考えられないような姿だった。それでも、ノエルの押しの強さに勝てるわけもなく……俺は、行くことを了承した。

 そしてその晩、俺は生まれて始めて酒というものを口にした――

 甘いといわれた果実酒ですら、異常なまでに苦く感じ……喉を焼くような痛みが走る。口を付けるたびに頭に響くそれは、まるで流れ出る血のようだった……

「お酒が苦いのは……きっと、人の人生を表してるからなんだよ――」

 不意に……ノエルが口を開いた。

「人生は苦くて……苦しくて。けど、だからこそ人は自分の人生を味わって生きていくの」

 言葉が……俺の頭を満たしていく……

 あの日……神官長になった俺は、自分でも気づかないうちに涙を胸の奥にしまいこんでいた。

「僕は……僕は……」

 どうしようもないほどの涙が溢れ、口からは嗚咽が漏れた。

「泣いていいんだよ、泣いて……強くなればいいの」

 優しいノエルの笑顔が……俺に力をくれたような気がした――

 

 

 

 ノエルと別れた後、自室に戻った俺は、ベットで寝息を立てる華煉を見つめていた。

 行為を続けられた少女は、心が砕かれ……言葉もろくに喋れない状態。いや、もはや心そのものがなくなってしまったのかもしれない――

 それでも、此処にある命は本物で、幸せになる権利があるはずなのだ。

 だからこそ、この少女を守り抜きたいと思った。この世の全ての悪から――

 だが、それは容易にいくことではない。まず第一に、少女は俺にすら心を見せないのだから。そして、それ以上に……

「ディスタンス……か」

 少女は、死神部隊と呼ばれるギルドに所属しているのだ。

 世界の裏側、闇を司るとさえ言われる謎多きギルド。そこに入り、表側の世界に戻ってきた者はいない。だからこそ、この少女を表の世界で幸せにすることは難しいのかもしれない。それ以上に、そうしようとしているのは俺自身のエゴであり、少女が望むとは限らないのだ。

 少女の望みが何かすら分からず、こちら側が勝手にそれが幸せだと決め付けてしまっては、それこそ自分の忌み嫌った男達と変わらないのかもしれない。

 だが……ディスタンスへと少女を連れて行くという選択肢だけは、どうしても選べないでいた。我ながらに、優柔不断なのかもしれない。

「久しぶりだな……柚葉」

 突然、後ろから声をかけられ……驚いて俺はそちらに向き直った。はたしてそこには、闇のような漆黒の髪と瞳を持ったプリーストの姿があった。

「神官長になったそうだな、とりあえずはおめでとう……か?」

 背筋が冷たさを通り越して痛みを訴えてくる。まるで氷のような視線は、見つめられるだけで胸を射抜かれたような気分になる。その男の姿には、見覚えがあった……

「クラーク……?」

 男……クラークは、口元に厭らしい笑みを浮かべながらこちらを見つめている。何もしていないのに、俺は一切身動きが取れなくなってしまっていた。

「その女……華煉は、うちのギルドの構成員なのでな。返してもらうぞ」

「待て!まだ華煉は動ける状態じゃない」

 無理にでも連れて行こうとしているクラークに、俺は全ての事情を話した。それに対し、クラークの方はさらに顔を歪め笑い出した。

「そこまでされても何も言わぬとは……さすがだな、ディスタンス所属のアサシンというのは」

「な……に……?」

 とうとう声を上げて笑い出したクラークに対し、恐ろしいまでの畏怖の感情が湧き出てくる。

 その瞬間――

「がはっ!」

 頭と背中の鈍い痛みが走り、俺は地面に叩きつけられていた。

「教えてやろうか?こいつの与えられていた任務を」

 顔面を押さえつけられ、身動きの取れない俺にクラークは続ける。

「こいつはディスタンスから暗殺の任務を受けていたのさ」

「暗殺……?」

「そうだ、そして……その対象はお前」

 顔面を押さえるクラークの腕に、さらに力が込められる。

「戻らないにもかかわらず教会からこちらに兵が来ないところを見て、拷問を受けているだろうとは思ったが……流石だな、上の言うとおりあの女は一切の情報を流さなかったというわけか」

 鈍い音が部屋中に鳴り響き、俺は蹴り飛ばされ数メートルの距離を離されていた。

「まぁいいさ……それならば、わざわざ俺がこいつの命を奪う必要も、貴様を殺す必要もないだろう」

「……」

「全ての真実を知った上で、貴様がこの女をどうするか……見てみたいものではあるからな」

 厭らしい笑みを浮かべたまま、クラークは部屋の扉に向かって歩き出した。俺は一歩も動けぬまま……その姿を睨み付けることしかできなかった――

「華煉が……僕を殺す――」

 取り残された俺は、ただ一人クラークの言葉を復唱していた。

 ふと見ると、少女はいまだ小さな寝息を立てている。本来ならばアサシンであれば……近寄っただけで目を覚ましそうなものだが、それもできなくなるほどに少女は衰弱しているということだろう。

 信じていた……わけではない。だが、信じたいとは思っていた。ディスタンスであったとしても、少女が教会の人間を殺そうとしていたということなど認めたくなかった。

「僕は……どうすればいいの?お姉さん――」

 答えの出るはずのない自問自答を繰り返す……だが、その度に浮かんでは消える言葉が余計に自分の胸を傷つけるような気がした――

 

 翌朝、目を覚ました華煉はいつもと変わらぬ怯えた瞳で俺を見つめてきた。その姿を見ると、やり場のない想いがこみ上げてくる――

 何をどうすればいいのかわからないまま、俺は涙を流していた。

「華煉……僕は、わからないよ……」

 口をついて出た言葉は、俺の心を満たし、少女へと繋がっていた――

 

 そして……あの悪夢の朝が、着実に近づいていたんだ……



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