「うそだっ!」

 目の前に横たわる女性の姿に、俺は思わず声を上げた……

 青空のように青く、美しい髪。凛として輝くサファイアの瞳。まるで雪のように白い……透き通るような肌。その全てが美しくて、愛らしい。

 だが、思い出の中に浮かぶ笑顔は……そこにはなかった。

「ゆず……助けて……」

 苦痛にゆがむ顔は、荒々しい吐息を吐き、絶えず体を震わせている。聖職者の証たる法衣のいたるところが破れていて、そこからは真っ赤に染まった肌が露見していた。

 痛みを押し殺すように……悲痛な声を上げる女性、その姿は今にも崩れ落ちそうだった。

「おねえ……さん……」

 俺の体が、カタカタと音を立てて震える。女性を見るのが辛くて、目を背けようとするが体が動かずいつまでも直視してしまう。

 そして、目の前の女性が大きく動いたかと思うと、その場に倒れこんで口から真っ赤な鮮血を噴出した。

「……っ!」

 その口から、声にならない叫び声が上がる。目の前にいるのは幻だと自分に言い聞かせるが、頭が混乱しきっているのかまったくもって落ち着こうとはしない。

「ゆず……ゆずぅ……」

 自分の名前を呼ばれるたび、その女性との思い出がよみがえる。そして、あの日の記憶が――

 救えなかった命――

 守れなかった人――

 守りたかった物――

 その全てを一度に失ったあの日が、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。

「うそ……だ。これは幻だ!」

 思わず、俺は叫び声を上げてしまった。

 だが、たとえ幻だとしても……それを見続けることが、俺には苦痛でしかたなかった。

 そして、その姿はさらに現実味を帯びていく……。

 一瞬目の前が真っ赤になったかと思うと、鼻をつく血のにおいが辺りを満たしていった。吐き気を催すようなきつい匂い。それは、あの日感じたモノだった。

 目の前が真っ暗になる。何も考えられなくて、俺はただただ言葉にならない声をひたすらに叫ぶことしかできないでいた……

 

 脳裏に浮かぶは、あの日の姿……

 逃げようと必死だった世界。唇に残ったわずかなぬくもり。腕にはしる血液の感触。

 その全てが疎ましくて、憎らしかった。

 だが、一番憎かったのは殺した相手ではなかった――

 守ることもできず、ただのうのうと生きている自分自身――

 

 目の前で繰り広げられず凄惨な状況に、目を背けることすらできぬまま……俺は、ただただ涙を流すことしかできなかった。

 どれほどの時間が流れたのだろう……気がつくと、目の前にいた姉さんの姿は消えていた。

 何もない空間。そして、何もない自分。

 ただただ無力で……何もできない自分が疎ましくて、辛かった。

 いっそ、このまま死んでしまいたいと思えるほどに……

 どうしても思い出してしまうのは、曇りのない青空のような女性の姿。

 真っ青な美しい髪と、輝くサファイアの瞳。その全てが愛しく、自分の全てだった。

 他に何もいらなかった……その人さえいてくれたなら――

「姉さん……」

 思わず、口から声が零れ落ちた。

 逃げ出したかった。何もない自分から。

 なぜ俺はあの姿を前に何もできずこの場に立ち尽くしていたのだろう……

 そうまでして、プリーストになりたかったのだろうか。

 幻想とはいえ、二度も……最愛の女性が苦しむ姿を、守ることもできず、ただ見つめてしまったのだ。

「僕は……僕は……っ!」

 力いっぱい地面を殴りつける。指が切れ、辺りに血が飛び散り、鈍い痛みが走るが、気にすることもなく殴り続ける。瞳からは大粒の涙が溢れ出し、止まることのないソレは地面を濡らしていく。

 いつしか、姉の名を呼ぶ俺の声は……声にならない嗚咽へと変わっていた――

 

 

 

「ゆず……?」

 名前を呼ばれ振り返ると、そこにはノエルの姿があった。

「ごめん……どうしても心配で、翼に頼んで今日は私が持ってきたの……」

 本当に心配といった表情で、ノエルはこちらを見つめていた。

 手には食事を持っていて、わずかに震えている。

「ノエルさま……」

 その姿を確認した直後、また涙が溢れ出してきた……

「ゆず……」

 ナニを言えばいいのか分からず、ただただ虚ろな瞳でノエルを見つめる俺に、ノエルは優しく微笑んだ。

「泣きたいときは、泣かなきゃダメ。一生懸命抱え込んでいたって、いつか必ず壊れてしまうよ……」

 俺は、もう……何も考えることができなくなってしまっていた。ノエルの微笑みが優しすぎて、涙が止まらない。

「抱きしめたいよ……本当は、今すぐ貴方を――」

 紡がれたノエルの言葉が嬉しくて、俺はわずかに……笑った。

「あと一日……がんばって」

「……はい」

 ここまで来てしまった……

 雪音の死を見せ付けられてもなお、俺は立っていてしまった……

 ならば、雪音の想いを受け入れるために……俺は、これからも立ち続けなければならないような気がした。

「姉さんに……恥ずかしくないように……」

 

 ノエルが出て行った後、俺はこの試験が始まってから、初めて食事に手をつけた。

 温かいスープとやわらかいパン、食べやすいように切られた野菜と、小瓶に入ったミルク。なんでもないその食事が、狂おしいほどに痛々しく。温かかった。

 一噛みするごとに、悲しみが、想いがこみ上げてくる。

 脳裏に映るあの日、あの時の記憶。ノエルがいて、翼がいて、みんながいて……そして、雪音がいた。

 一秒前にも、戻れない時間の中で……失ってしまった大切なモノ。

 その全てが愛しくて、悲しかった。

 まるで、今まで生きてきた時間を噛み締めるかのように……ゆっくりと食事を食べていく。やがて、その全てを食べ終えた後、瞳を閉じ、明日を考える。

 一秒前にも戻れない時間は、一秒先の未来すらも教えてはくれない。

 それでも、そこで立ち、生きていかなければならないことを思い知らされるのだ。

 今という時間は、雪音が必死になって守ってくれた時間であり、雪音がどんなに望んでも手に入れることのできなかった雪音にとっての未来なんだ――

 それならば、そこに立つ自分がしなければならないことはなんなのだろうか……

 雪音の分まで生きる……そんなことは、今の俺には言えるわけがない。

 それでも、もしも雪音が望んだことが、俺が立ち続けることならば……いまは、立って、前を見ることしかできないのではないかと……

 ゆっくりと、瞳を開く。

 現実を受け入れるために、そして未来へと歩くために。

 覚悟は決まっていた……

 今日一日、どんな現実と幻想が襲いかかろうが……たっていると――

 

 だが……その日の現実は……そんな容易く耐えれるものなどではなかった――



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