☆
それから程なくして、バフォメットは姿を消した……
去り際に、「三日間の内に気が変わればいつでも言うがいい」とだけ残して――
それからどれほどの時間が流れただろう。もしかしたら、数分の出来事だったのかもしれない。あるいは、その逆に何時間もの時間が流れていたのかもしれない。
鼻をつく血の臭い、えぐりつけられるような胸の痛み。そして、それ以上に耳に残る雪音の声。
そのすべてが、俺の頭をかき回し、今にも発狂してしまいそうだった。
気がつくと、目の前に翼の姿があった……
口元に優しい微笑みを浮かべ、手招きをしている……
そして……
「ゆず、おめでとう。試験終了だよ、出ておいで」
そう言って、翼はこちらに向かって手招きを始めた。
見ると、いつのまにか周囲にはノエルとシアの姿もあった。
そのどれもが優しく微笑んでいて、今にもすがりつきたくなる。それは、先ほどからの苦痛から逃げたいという自分の願望の現われであったのかもしれない……
「さぁ、おいで……そんなところにいつまでもいないでさ」
だが、そこに来て……俺は、不可思議な衝動に駆られた。
手を……とってはいけない――
頭の中に、その言葉だけが浮かぶ。
(まだ……一日だよ?)
そこで、俺はようやく気がついた。
(いま……夜か)
翼は言っていた。夜になると、ここは幻想が満たすと。
つまり、目の前にいる翼はただの幻であり、あの手をとってしまうことこそが言わば試験の失格を意味するということであろう。
危うく出しかけた手を必死で戻し、翼をにらみつける。が、依然として目の前で微笑みを浮かべる三人は幻とは思えないほどに優しく見えた。
そして、気がつくと……目の前に、今度は黒髪の少年の姿が現れた。
少年の姿には見覚えがあり、久しく会っていないが、一目でわかった。
「ゆず、プリーストに転職したらまたどっかいこうぜ」
そう言って微笑む少年……飛鳥が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
そして、円のぎりぎりまで近寄り手を差し出した。
「早くそんなとこ出ちまって、一緒に行こうぜ」
「……」
「なるんだろ?雪音さんみたいに強くさ」
その言葉がスイッチになった……
ダレにもいえない言葉……雪音本人にすら言えなかった言葉を、唯一言えた相手が飛鳥だった。
雪音が好きだということ――
彼女のいない今となっては、もう二度と……雪音自身に伝えることはできない……
だのに……目の前にいる幻は、こともあろうに飛鳥の姿でそれを言い放ったのだ……
「貴様……」
「え?」
「幻風情が……姉さんの名前を語るなっ!」
俺の怒りが、叫び声となってその部屋に木霊する。途端に、一瞬にしてその場にいた幻たちは姿を消した・
その後も、入れ代わり立ち代り見知った者達の姿が現れては消えしていく。だが、もはや俺にとってそんな幻想など何の意味もなかった。
☆
しばらくして、カチャリという音と共に翼が手に食器を乗せて現れた。
「ゆず、食事の時間だよ」
「……」
一瞬、それが本物かどうかわからず身構えてしまったが、すぐにそれが本物だということがわかった。
「一日、よく耐えたね……あと二日だ、がんばるんだよ」
昨日の幻想と見比べて始めてわかる。翼の笑顔は、あんな作り物とはまるで違い、確かな温もりを感じる。
「……翼」
「なんだい?」
俺は、そこに来て……昨日の出来事を話した。バフォメットを前に、恐怖で震え、現実を否定して逃げようとさえしてしまったこと。そして、それを雪音が助けてくれたということ……
「あれは、僕の見た……夢とかだったのかもしれない。けど、姉さんは僕を助けてくれたんだ……」
気がつけば、俺の頬を涙が伝っていた。
「ゆず」
「……」
翼の手が、ゆっくりと俺の頭に乗せられた。
「ゆず、忘れないでくれ……雪音は、君を愛していたということを」
「……っ!」
「たしかに、教会は……美しいだけではないし、世界も神も……愚かな存在なのかもしれない」
涙が止まらなくなり、目の前が真っ白になって翼の顔が上手く見えない。それでも、その声が、微笑が、温かくて……そして、嬉しかった。
「それでも、雪音は君を愛した。そして、それ以上に君のいるこの世界を愛した……」
雪音の言った……最後の言葉を思い出す……
『行きなさい、ゆず。私はゆずだけは死なしたくない……』
それは、雪音のくれた最後の優しさ……そして、はじめてくれた想い――
「だからこそ、雪音は世界を守れるほどの聖職者となれた……誰かを愛し、その人がいる世界を愛したから……忘れないでほしい、彼女の望んだ全てを――」
ゆっくりと、俺は頷く。もう……負けない――
「僕……絶対、この試験を乗り越えてみせる……そしてなるんだ!お姉さんのような本当の聖職者に!」
微笑む翼が、力強く頷いた。
それから先は、もはや意味などないとすら思えた。
次々に襲い掛かる魔物達を無視し、目の前に現れたバフォメットにすら恐怖を感じなかった。
「お前なんかに僕の意思は変えれない」
不敵に笑う俺を、バフォメットは一瞥し、厭らしい笑みだけを残し消えていった。
何も怖くなかった。今の俺なら、どんな敵が来ようとも、どんな幻が襲ってこようとも、簡単に乗り越えられるとすら思えた。
だが――
「ゆず……」
目の前で……傷つき涙を流す女性の姿だけは……想像できなかった――
「たすけ……て……」
「うそだ……っ!」
あの時の……目の前で消えた命……
その姿が、再び目の前に……
「うそだぁぁぁああ」
俺は……絶叫していた――