翼達がその場を離れた途端、バチィっという大きな音を立て、無数の数の魔物が俺の周囲を取り囲んだ。

 血走った目、絶えず荒い吐息を吐き出し、醜い形相でよだれを垂らす魔物達。その全てが、一目散に俺に向かって飛び掛ってくる。その腕が、牙が、俺の身体を掠めてていく。円の内部にいる俺に、攻撃は一切届かない。だが、身体を掠める風や肌に感じる威圧感は本物だった。

 身動きも取れないまま、次々に襲い掛かる魔物にただただ耐えるしかなかった。円が、自分の身体に対し小さく、少しでも身を引けば出てしまう大きさしかなかったのだ。

 頬を伝う汗が、大きな雫となって地面に落ちる。痛みこそないものの、まるで噛み付かれているかのような気分になり、絶えず吐き気をもよおすその光景に、俺は気が狂いそうになっていった。

 どれほどの時間そうしていたのだろうか。時間にすれば、ものの数秒なのかもしれないし、何時間もたっていたのかもしれない。正直、この中に入ってからというもの完全に時間間隔も平衡感覚もなくなっていた。

 しばらくして、その魔物達が一斉にはじけとんだ。体中から血を噴出し、もがくようにしてその場に倒れていく。目の前にある結界まで飛び散ってきた魔物の欠片が、結界にぶつかりさらに細かく破裂し、その瞬間、目の前が真っ赤に染まる。結界にこびりつく魔物の血だ。そして、ゆっくりとその血が地面へと落ち、再び結界が透明さを取り戻したとき、目の前に巨大な影が浮かび上がった。

 一瞬で、体中の血が引いていくような気分だった――

 背中に冷やりとした感触が浮かび上がる。灰色の巨大の山羊の角、赤く光る瞳、その体中から発せられる魔力、その全てが他の魔物とは違い恐ろしいまでの威圧感を曝け出している……

 ルーンミッドガルドに生息する、全ての魔物達の中でも……最強と呼ばれる魔物の姿がそこにはあった――

 

「バフォ……メット……?」

 その身体が動くたび、周囲の風が動くようにさえ思えた。

 地鳴りのような足音を立て、ゆっくりとソレはこちらに向かってくる。恐ろしさ以上に、その威圧感に完全に俺は飲み込まれてしまっていた。

 カタカタと音を立てて震える体、それを抑え込むように必死になって拳を握り締める。だが、目の前に立ちはだかったバフォメットを前にそれを抑えることなど不可能だった。

「汝……何故ソレほどまでに努力をするか……」

 頭の中に直接響いてくるような声。その声に、頭の中が真っ白になる。

「分からぬか……己がしていることがどれほどまでに愚かな行為かということが」

 その瞬間、腹部に鈍い痛みが走る。見ると、腹部にバフォメットの拳が押し付けられていた。

 いや、正確には、その拳は当たってはいない。すんでのところで結界に阻まれその拳は止められている。だが、その拳がもたらす風圧だけで、腹部に衝撃がはしったのだ。

 口元に、血がにじむ。衝撃に耐えることもできず、俺はその場に膝を着いた。

「如何な結界を張ろうとて……我を止めることなど不可能!我がその気になれば……汝なぞ、片手で葬ることができる」

 その言葉は、本当だった。体に走った衝撃……所詮これは、本気で殴ったわけではない。先ほど無数の魔物達を一瞬で葬ったほどの力を持ってすれば、この結界がどんなに強かったとしても、俺の身体など一瞬で粉々になるだろう。

「う……ぐぅ……」

 口から、苦痛の声が漏れる。痛みで、考えることすらもできなくなる。

 体に一切の力が入らない。恐ろしさに体は震え、口からは言葉にならない喘ぎ声にも似た声が零れ落ちていくだけ。

「人間よ……そろそろ、素直にならぬか」

 ソレの口元に皮肉じみた笑みが浮かぶ。

「我が同胞となれ、汝の美しき魔力……永劫に続く闇の楽園のための力となるはずだ」

 その言葉が、あまりにも魅力的に俺には聞こえた……

「会いたくはないか……?」

 そして、その後発せられた言葉はまるで耳を疑うような……恐ろしい言葉だった。

「我の力を持ってすれば、汝が愛した女を黄泉の国よりこちらへ引き戻すことも可能だ」

「引き……戻す……?」

「さよう、汝が愛した青空のように澄んだ髪を持った女。あやつを神の束縛から解放し、闇の世界に呼び戻すことができる」

 呼び戻す……

 神……

「気づいているのではないか?汝は、この世に存在する神と呼ばれし存在が間違っているということに」

 まさに、その通りだった。華煉のことで、俺の中で神等という存在はもはや意味などなかった。

「神は愚かで、非道だ。汝から愛する者を奪い、さらには守りたい者を蹂躙して来たではないか」

「……」

「我と共に来い。そうすれば、永久に続く真に正しき世界で汝は愛する者と共に生きることができる」

 姉さんと一緒にいれる……その言葉が、頭のなかで何度となく繰り返されていく。

 大好きな人。愛する人。全ての者を守るため、彼女は神に自らを捧げてきたのだ。

 だが、それで神は彼女を幸せにしてくれたか……?

 逆に、彼女から奪えるだけのものを奪い、挙句その命を奪っていったではないか。

 これほど理不尽なことがあっていいのか?

「もう一度言う、我と共に来い」

 その瞬間、バフォメットの顔が優しい顔に見えた。

 優しく、暖かい……姉さんといたころに感じたような……そんな――

「僕は……」

 ゆっくりと、俺の手が……差し出されたバフォメットの腕へと伸びようとしたとき――

『だめ!』

 何処からか、声が聞こえたような気がした。

『だめだよ……ゆず』

 暖かく、どこか懐かしい声。

 思い出せない……絶対に忘れたくない声のはずなのに……

『思い出して、ゆず……神を信じ、私と一緒にいたときのことを』

 その瞬間、脳裏に女性と過ごした日々がよみがえる。

 教会の中で、一緒にケーキを作ったこともあった。

子供達に配るためにと、女性が朝早くから材料を集め、用意をした日だった。結局、その女性の失敗でケーキは黒こげになってしまい、見るにも無残なものになってしまった。

 一口味見をした俺は、あまりの不味さに顔をしかめることしかできなかった。それを見た女性が腹を立て、女性自らもケーキを口に運んだ。無論、その女性からしてもそのケーキは不味いものであった。だが――

『まぁ……こんなものよ!』

 などと言ってムリに笑う姿は、あまりにも愛らしく……暖かかった。

 修練も兼ねた観光!などと言って年中雪の降る幻想の町、ルティエへ行ったこともあった。

 最初は走り回って喜んでいた女性だったが、次第に疲れ果てその場にへたれ込んだ。「修練じゃなかったの?」と聞いた俺に、彼女は

『遊ぶこと、疲れること、楽しむこと、その全てが人を育て、その人に優しさを伝えるんだよ』

 そう言って……笑った。その後、神父にこっぴどく叱られたが、女性は俺の前で笑顔を絶やさなかった。

 他愛のないことで喧嘩したこともあった。

 大人気ないことでいがみ合い、顔を合わせることを嫌がった。だが、すぐに女性が俺の前に来て、優しく諭すように謝ってくれたのを覚えている。

 俺の気持ちを分かってくれた。

 素直になれない俺に、自分から謝って……そして、諭してもらうことで俺は素直になることができた……

 何度となく笑いあい、そして泣いた……

 その全てが俺にとっての宝物で、俺にとっての全てだった――

 

 気がつけば、俺の瞳から涙が零れ落ちていた。

『思い出して……ゆず、神を信じていたあの日、全てを神に望んだんじゃなかったってことを――』

 そうだ……神を信じていた俺達は、何かをしてほしくて人々に慈愛を振りまいていたのではない。自らが傷ついてまで誰かのためにしてきたのは、見返りを求めてのことでは決してなかった――

「断る!」

 俺は、根限り大きな声で叫んだ――

「たとえ……神が間違っていても、僕や姉さんのしてきたことは決して間違ってなんかいないから!」

 怖かった……だが、不思議と不安は無かった。

「必ず……後悔するぞ?」

「かまわない!」

 だって……俺には、信じる未来があるから――



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