<3>

 

 お兄ちゃんをなんとか室外へと追いやり、私はその場にへたれ込んで、呆然と物思いにふけっていた。

(なんで……なんであなたは優しくするの?)

 一人延々と答えの出るはずがない自問自答を繰り返す。

(大切な妹……私が?嘘よ……そんなの)

 認めたくないだけなのかもしれない。自分が、大切に思われているということを。

 それを認めてしまうと、自分が自分でいられなくなるような……そんな気がした。

 我ながらに、酷い人間だと思う。

 自分が傷つきたくないからと、他人の意思を否定し、自分を守ろうとしているのだから。

 考える度に、とどまることを知らぬ涙が、ぼろぼろと流れてくる。

 

 そこで、部屋の隅に置いてあるインターホンが鳴った。

 一瞬だけためらってから、受話器を取る。出たくはなかったが、出なければまた怒られる。

「はい」

「ご飯よ、早く来なさい」

 受話器から、お母さんの声が聞こえてくる。それを、簡単に返して私は受話器を戻した。

(はぁ……行きたくないな)

 そうは言っても、すぐに行かなければまた大声で怒鳴られてしまう。

 こういう時の母親というのは勝手なもので。自分がなにかあるときは、いくらでも周りを待たせるくせに、周りが自分を待たせると怒声を浴びせる。

 第一、いつも私が行かなくても食事を開始するくせに、私を待ったと言わんばかりに怒るのだから、理不尽なものである。

 そんな状況に嫌気がさしながらも、それでもその母親に従わなければ生きていけない自分が情けなくて、疎ましい。

 そうしていても、何もできない私は近くにあったハンカチで目元を少し拭いてから部屋を後にした。

 食事の間中、私はずっとうつむいていた。それは、こっちを見つめてくるお兄ちゃんと目を合わせないようにするためで、辛いからとかそういうのではない。

「ごちそうさまでした」

 そう言って私は、横にあらかじめ用意しておいたお盆に乗せれるだけの食器を乗せる。

 それを両手で持って、落ちないようゆっくりと立ち上がる。そうすると、ずしりと重いお盆の感触が手に違和感を与え倒れ込みそうになってしまう。

 それでも何とか体勢を立て直し、私はお盆をキッチンへと運んだ。

 少し水で食器を濡らしてから、右手に持ったスポンジに洗剤を流し込む。できる限り力を込めないように、ゆっくりと食器にスポンジを当てていく、脂っこい汚れも次第に取れていった。

 食器を傷つけないように、確実に一つずつ洗っていく。そうしていると、食卓に残っていた食器や他の人の食べた食器などが私の元へと運ばれてきた。

 持ってきたお母さんとお兄ちゃんを横目で見てから、一言「ありがとう」と言って作業を続ける。普段よりも一人多い分、お皿も多い。それでも、カチャカチャと音を立てながらきれいになっていく食器を見ていると、気分がいい。

「ふぅ……」

 程なくして、食器は全て洗い終えた。水を流して流しの中を掃除する。それから、水でかじかんで痛い手を洗い、私はキッチンを後にした。

 

 それから、お風呂場へと向かう。

 私の家は全自動で、スイッチさえ押しておけば勝手にお風呂が沸くようになっている。お買い物から帰ってきた後に、セットをしたので大丈夫だと思いつつも、念のためにできているかを確認する。

 はたして、そこにはいつもどおり湯気が立つ湯船があった。

「うん」

 それを確認してから、私は自室へと向かった。

 そこで……

「お兄ちゃん……」

 お兄ちゃんと、会ってしまった。

「……」

 何をいえばいいのか分からない私は、目を合わせないようにうつむいてお兄ちゃんの横を通り過ぎようとする。だが、それをお兄ちゃんの手が制止した。

「待ってよ……利沙」

「……」

 お兄ちゃんの今にも泣き出しそうな悲しい表情を、私は直視できない。

「……どけて、お願い」

「……」

 無理やりその手をどけようとするが、私の力ではお兄ちゃんを払うことはできなかった。

「お隣さんから……聞いてたよ、何でもできるんだって」

「……」

 ゆっくり、諭すようにお兄ちゃんが口を開く。

「学校の成績もすごくよくって、学年トップなんだって……。何より、料理や裁縫も得意で……いつお嫁さんに行っても大丈夫よって笑ってた……」

 確かにそれは本当のことだ。でも……

「努力……したんだろ?認めてもらいたくて」

「……っ!」

 毎日、遅くまで勉強した。一言「よくやったね」って言ってもらいたくて――

「でも、お母さんはそんなのどうでもいいみたいな……態度。そりゃあ……思うよな、そんなだったら誰だって……」

「やめて!」

 そこで、私はとうとう声を荒げてしまった。

 私の瞳に、大粒の涙が溜まる。そして、それはみるみるうちに零れだし、頬を濡らしていく。

「お願い……もうやめて……」

 今にも消え入りそうな声で、私は呟くことしかできない。そんな自分が嫌で嫌でたまらない。

 

 そこで、目の前に私は人の姿を見つけてしまった。

「利奈……」

 その声で、同じく利奈を見つけたお兄ちゃんの手がゆるむ。その間に、私はその手を離れその場を足早に逃げ出した。

「ぅう……ヒッく……」

 もう、何度目だろう……

 今日だけで、どれだけ泣けば気がすむんだろう……

 それでも、私の瞳から零れ落ちる涙は、止めようとしても止まる気配がまるで無い。

 いつの間にか外は土砂降りの雨が降っていて、その音に私の声はかき消されていく。

『努力……したんだろ?認めてもらいたくて』

 私の頭から離れない……お兄ちゃんの言葉。

 悲しくなるほど痛々しくて、涙が溢れてくる。

(なんで……)

 全てが見透かされているようだった。

 だが、だからこそ否定してしまう。そんなことはないと。

(いや……入ってこないで……)

 必死になって自分と他の人との間に壁を作ろうとする。そうすれば、傷つかずにすむから。

 それでも、お兄ちゃんはその壁を壊そうとしている。

 私が築き上げた壁を壊して、私を優しく抱き締めようとしている。

 本当は寄り掛かりたかった。

 全てをさらけ出し、あたたかい腕に包まれて泣いてしまいたかった。

 でも、それをするのが怖くて仕方がないのだ。

 いままで何度となく受けてきた裏切りと、利奈という大きすぎる存在への恐怖心が邪魔をする。

 

 いつしか、泣き疲れた私ほその場で深い眠りへと落ちてしまっていた――



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