<2>
やっとの思いで家までたどり着いた時には、私の手の平は真っ赤にはれてしまていた。
少し水で冷やそうと思い、水道へ向かう。そこで、手を洗っている利奈と鉢合わせになってしまった。
「利沙?どうしたの?」
「え?いや、ちょっと手を冷やそうと思って……」
利奈を前にすると、私はいつも強張って震えてしまう。
特別意識しているつもりはなくても、やはり私にとって利奈は怖いし、近寄ってはいけない気がするのだ。
それは昔、お母さんに「病気が悪化したらいけないから利奈の傍によらないで」と言われた記憶が、いまだに根強く残っているからかもしれない。
「そうなんだ。じゃあ、わたしはもう行くね」
しどろもどろしている私を、まるで子供のように不思議そうな顔で見つめてから、利奈は部屋へ戻っていった。
「行くね……か」
その言葉に、私は異常なまでの重圧を感じていた。
戻るではなく。先にという言葉をつけたのでもなく。ただ行くという言葉を使うことで、利奈の向かう場所は私の居場所じゃないと宣言されてしまったような。そんな風にとれてしまったのだ。
普通の人ならばそうは思わないだろうし、この場合は行くで正しいと……思うのだろう。
それでも、私には……そうとれてしまったのだ。
「なんで……なんでよ!」
私の心は、そんなにもひねくれてしまっていた――
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肌をさすような冷たい風が、私の体に容赦なく吹き付ける。古く脆い壁に、先日とうとう小さいとはいえ穴が開いてしまったのだ。
今年はもうじき4月だというのに、寒くて堪らない。そのうえ、私の部屋は家の中では少し奥の離にあり、夏は暑く冬は寒い。
そのため、自室にいると室内にいても風邪を引いてしまいそうだ。
それでも、悪いことばかりではない……
「泣くのに……誰にも邪魔されないもんね……」
この部屋へは、滅多なことがない限り他の人は近寄らない。
食事や、何かあるときは部屋に置いてあるインターホン(元々は利奈が体調が悪くなった時に、どこへいてもすぐに母親へ連絡できるように全ての部屋に設置しただけだったが)で、私を呼び付けるようになっている。
そんな理由で、私の部屋は完全に家から隔離された形になっているため、いくら泣いても……誰にも見られない。
「う…くぅ……っ」
そこまで考えて、とうとう堪えていたものが零れ落ちてしまった。
止めようとしても、とどまることを知らない涙は、頬を伝い膝へと落ちる。
そんな自分が情けなくて、誰よりも愚かに思えた。
不意に、部屋の扉にノックの音が響いた。
「利沙、いる?」
続いて、部屋の中に入ってくる声。
「え?いや、ちょっと」
私の声が聞こえたのか、その声の主は躊躇無くその扉を開けた。そこにきて、私の姿に驚きうろたえ始める。
「わっ、ごめん」
大慌てで部屋の外へ出たお兄ちゃんに、私は恥ずかしさと情けなさで顔を真っ赤に染め上げてしまった。
一つため息をついてから、近くにおいてあったハンカチで目元を拭い、少し落ち着くように深呼吸をしてから外にいるお兄ちゃんへ声をかける。
「ごめん……はいっていいよ」
その声を聞いて、お兄ちゃんはちょっと沈んだ表情をしながら部屋の中に入ってきた。
「あの……見るつもりは無かったんだ、ごめん……」
「いいよ……別に」
曇った表情で私を見つめるお兄ちゃんを、振り返ることすらできない私は、呆然と天井を見つめていた。
「あの……さ、利沙」
そんな私に、いかにも何を言えばいいかわからないといった感じでお兄ちゃんが口を開く。
そんな私を見つめて、お兄ちゃんはすごく寂しそうな顔をしていた。
「利沙は……昔からそうだったよね」
「え?」
突然の言葉に、私は少し驚いてしまった。
昔のことなんて、もうほとんど覚えていないし、覚えていてもほとんどがお母さんが言った私への言葉や、利奈のことばかりだ。
驚きを隠せないでいる私を見て、お兄ちゃんはさらに続ける。
「もう、忘れちゃったかな。俺のことなんて」
そう言ったお兄ちゃんの顔には、優しい微笑みが浮かんでいる。
その笑顔が、妙に痛々しくて……吸い寄せられそうになってしまう。
「いつも……利沙はみんなから――俺から、離れてた……。そんな利沙に、手を差し延べたくて……けど、利沙はいつも遠い存在だった」
その言葉に、あの夢が脳裏によぎる。
遠くから、みんなが笑っているのを見つめているだけの私……そして、それを寂しそうな表情で振り返る……お兄ちゃんの顔。
「俺は何も知らない……利沙の言うとおりだ。でも……でも、利沙も知らない。君は誰からも愛されていない存在なんかじゃないことを」
ポタリ……音を立て、瞳から零れ落ちた雫が膝に落ちた。
「俺は……利沙のことを大切な妹だと思っているよ」
そう言って抱き寄せられる。その腕が、いままで感じたことがないくらいあたたかくて……私の頬を伝う涙の量が、さらに多くなっていく……
「……だから、もう一人で泣いたりしないで」
優しく耳元でささやかれる言葉に、私はそっと目を閉じる。
でも……
「やめて……もう、やめてよ……」
「え……?」
私は、抱き締めるお兄ちゃんの腕を、無理やりに振りほどいた。
「私を……私をこれ以上傷つけないで!」
そう言って私は、声を荒げる……
――もう失いたくない
「私は、一人がいいの!何もいらないの!」
ぼろぼろと、まるで絵に描いたような量の涙が零れ落ちて来る。
――失うくらいなら何もないほうがいい
「出てって……」
「利沙!」
「この部屋から出てってよ!」
泣きじゃくる私を見て、お兄ちゃんはすごく悲しい表情をしていた……
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