プレリュード
☆
夢を見た……
二度と思い出したくない夢を……
「お姉さん、逃げよう。このままじゃお姉さんが死んじゃうよ」
土砂降りの雨の中、顔に小さなめがねをかけた赤毛の少年が、目の前にいる女性に向かって必死に声をかけている。
「ゆず――逃げなさい。あなただけでも……」
それに対して、女性の方は少年に優しくなだめるような声で言った。見ると、女性の方の背中には大きな刃物で付けられたような傷があり、そこからは大量の血が流れ出ている。
「いやだよ、お姉さん。僕は……僕はお姉さんをおいてなんていけないよ」
「ゆず――」
女性は少し困ったような顔をして少年の方を見やる。だが、少年の決意は揺らごうとはしない。一呼吸置いてから、女性は少年の頭に手を置き、優しく諭すように言う。
「ゆず……いい子だからいう事を聞いてちょうだい……」
「なんでさ、何でそうやって子ども扱いするのさ」
「え……?」
その言葉に、少年は急に真顔になったかと思うと、女性の胸に顔をうずめて、そのまま動かなくなってしまった。
「ゆず……?」
「……」
しばらく待っては見たものの、少年の方は動く気配を見せなかった。
「ど…どうしたの?」
突っ伏したまま、少年が口の中で何かを呟いた気がした。
「どう……」
「なに?」
聞き取る事のできなかった女性は、思わず問い返してしまった。
「どうしてそうやっていつも子ども扱いするのさ」
そう言って顔を上げた少年の瞳には、今にもこぼれ落ちそうな程の大粒の涙が湛えていた。
「ゆず……?」
実際それは、見る間にぼろぼろと溢れ出してしまった。
「どうして…どうしていつもそんなふうに…子ども扱いするの…」
涙を拭くかのように、顔を伏せながらも少年は女性に畳みかける。
「僕…僕もう子供じゃない!……たくさん狩りだってした、強くもなったよ……それに、背だって伸びたよ!」
「柚葉……?ごめん……」
「お姉さんのバカ!…バカ!バカ!バカ!」
泣きながら、少年の小さな手が……女性の胸を叩く――
「そうだね……柚葉はもう立派な大人だよね――」
胸に打ちつけられる少年の拳は、徐々に力を失っていき…いつしか少年は泣きじゃくる事しか出来なくなっていった……
「ほら……もう泣かないで、子ども扱いしないから……」
女性は、少年の肩を両手でぎゅっと……できるかぎり優しく抱きしめた。
「けどね……ゆず、お願い――あなたは生きるの」
「いやだ……お姉さんのいない世界でなんて生きていたくなんかない」
「ゆず……」
少年の瞳からはたえることなく涙が流れ落ちている――
「いやだ……いやだよぉ……」
「ゆず……」
女性は、その右手を少年の頭に乗せ呟くように言う
「ゆず……私ね、ゆずのこと好き。本当にね」
「お姉さん……?」
「弟のように……そして、一人の男の子として……」
女性は、少し戸惑うような表情をしたあとに……
すばやく少年の唇を奪った。
「!!」
驚いて離れようとする少年の小さな体を、女性はしっかりと抱き寄せた。
「…ンむ…」
強く抱きしめると、少年は力を抜いて、すぐに大人しくなった。
少しの時間がたち……女性は少年の唇から自分の唇をはなした。
そして……
「だからね……行きなさい、ゆず。私はゆずだけは死なしたくない……」
優しい笑顔を浮かべた……
「ごめんね――」
それから……どれだけの時間がたっただろう。
焦点が曖昧で虚ろな瞳でその場にへたり込んでいた少年と、すでに息を引き取り動かなくなってしまった女性は、その場に駆けつけた教会の神父たちに保護され、教会へと運ばれた……
死んでしまいたい……
そう思った
どれだけ時間がたとうとも――
忘れる事なんて出来なかった
鼻を衝く血の匂い……
自分の腕の中でぬくもりを失っていく最愛の女性……
狂ってしまいたかった……
共に死んでしまいたかった……
――だが、俺は生きてる
こうして今ものうのうと……