プレリュード

 

 夢を見た……

 二度と思い出したくない夢を……

 

「お姉さん、逃げよう。このままじゃお姉さんが死んじゃうよ」

 土砂降りの雨の中、顔に小さなめがねをかけた赤毛の少年が、目の前にいる女性に向かって必死に声をかけている。

「ゆず――逃げなさい。あなただけでも……」

 それに対して、女性の方は少年に優しくなだめるような声で言った。見ると、女性の方の背中には大きな刃物で付けられたような傷があり、そこからは大量の血が流れ出ている。

「いやだよ、お姉さん。僕は……僕はお姉さんをおいてなんていけないよ」

「ゆず――」

 女性は少し困ったような顔をして少年の方を見やる。だが、少年の決意は揺らごうとはしない。一呼吸置いてから、女性は少年の頭に手を置き、優しく諭すように言う。

「ゆず……いい子だからいう事を聞いてちょうだい……」

「なんでさ、何でそうやって子ども扱いするのさ」

「え……?」

 その言葉に、少年は急に真顔になったかと思うと、女性の胸に顔をうずめて、そのまま動かなくなってしまった。

「ゆず……?」

「……」

 しばらく待っては見たものの、少年の方は動く気配を見せなかった。

「ど…どうしたの?」

 突っ伏したまま、少年が口の中で何かを呟いた気がした。

「どう……」

「なに?」

 聞き取る事のできなかった女性は、思わず問い返してしまった。

「どうしてそうやっていつも子ども扱いするのさ」

 そう言って顔を上げた少年の瞳には、今にもこぼれ落ちそうな程の大粒の涙が湛えていた。

「ゆず……?」

 実際それは、見る間にぼろぼろと溢れ出してしまった。

「どうして…どうしていつもそんなふうに…子ども扱いするの…」

 涙を拭くかのように、顔を伏せながらも少年は女性に畳みかける。

「僕…僕もう子供じゃない!……たくさん狩りだってした、強くもなったよ……それに、背だって伸びたよ!」

「柚葉……?ごめん……」

「お姉さんのバカ!…バカ!バカ!バカ!」

 泣きながら、少年の小さな手が……女性の胸を叩く――

「そうだね……柚葉はもう立派な大人だよね――」

胸に打ちつけられる少年の拳は、徐々に力を失っていき…いつしか少年は泣きじゃくる事しか出来なくなっていった……

「ほら……もう泣かないで、子ども扱いしないから……」

 女性は、少年の肩を両手でぎゅっと……できるかぎり優しく抱きしめた。

「けどね……ゆず、お願い――あなたは生きるの」

「いやだ……お姉さんのいない世界でなんて生きていたくなんかない」

「ゆず……」

 少年の瞳からはたえることなく涙が流れ落ちている――

「いやだ……いやだよぉ……」

「ゆず……」

 女性は、その右手を少年の頭に乗せ呟くように言う

「ゆず……私ね、ゆずのこと好き。本当にね」

「お姉さん……?」

「弟のように……そして、一人の男の子として……」

女性は、少し戸惑うような表情をしたあとに……

すばやく少年の唇を奪った。

「!!」

 驚いて離れようとする少年の小さな体を、女性はしっかりと抱き寄せた。

「…ンむ…」

 強く抱きしめると、少年は力を抜いて、すぐに大人しくなった。

少しの時間がたち……女性は少年の唇から自分の唇をはなした。

そして……

「だからね……行きなさい、ゆず。私はゆずだけは死なしたくない……」

優しい笑顔を浮かべた……

「ごめんね――」

 

 

それから……どれだけの時間がたっただろう。

焦点が曖昧で虚ろな瞳でその場にへたり込んでいた少年と、すでに息を引き取り動かなくなってしまった女性は、その場に駆けつけた教会の神父たちに保護され、教会へと運ばれた……

 

 

死んでしまいたい……

そう思った

 

どれだけ時間がたとうとも――

忘れる事なんて出来なかった

 

鼻を衝く血の匂い……

自分の腕の中でぬくもりを失っていく最愛の女性……

狂ってしまいたかった……

共に死んでしまいたかった……

 

――だが、俺は生きてる

 こうして今ものうのうと……



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