<5>

 

 唇にぬくもりを感じて、私は目を開いた。

 それまではどんなにやっても開かなかったのが、まるで昔話のお姫様のように、すんなりと開いたのだ。

 まだまだ体中が熱いし、意識も朦朧としてる。それでも、少しだけ楽になったような気がした。

「俺……好きだったんだ……利沙のこと」

 涙が止まらない。生まれて初めて感じる不思議な気分に、私は満たされていた。

「俺さ……夏から、一人暮らしするんだ……おじさんとおばさんには、ちゃんと言ってる。あと一年……あと一年で、利沙も高校生だろ?だからさ……」

 再び瞳を閉じて、つむがれる言葉を待つ……

 あふれてくる涙を、もう止めようとはしない。なぜか、そんな自分が嫌じゃなかった。

「あっちの学校受けて……一緒に暮らさないか?」

 ゆっくりと……体を抱きしめられる感触。その暖かさが嬉しくて、私は耳の裏まで真っ赤になってしまった。

「私で……いいの?」

「うん……」

「利奈じゃなく……私だよ?」

「俺は、利沙がいいんだ」

 耳元でささやかれる言葉に、私はすでに力が入らなくなってしまっていた。

 頬を伝う涙。体に感じる、お兄ちゃんのぬくもり。大きな喜びと、そのあたたかさに私の意識は深い闇へと沈んでいった。

 それでも……私は、それが幸せで……とても嬉しかった――

 あれから、一年の時間が流れた――

 それは、決して平坦な道ではなかったし、泣きそうなくらい辛かったこと、泣いてしまったこと、本当にいろいろなことがあった。

 それでも、その度に支えてくれる人がいてくれた。大好きで、誰よりも傍にいてほしい人。誰よりも、傍にいたい人が……

「それじゃあ、いってきます」

 そして今日……私は、その人の元へと向かう。今後のことを考えたら、不安で仕方が無い。それでも、なんとかなるような気がした。

「そう……本当に行くのね」

 私を見つめるお母さんの顔が、まるで泣いているみたいで、私はドキッとする。

「お兄さんを困らせるんじゃないのよ?」

「うん」

 それでも、何も変わらないと思っていた。いや、思いたかったのかもしれない……

「……娘をお嫁さんにやる母親というのは、こんな気持ちなんでしょうね……」

 そんな私に言われたお母さんの言葉は、私にとってはとても意外な言葉だった。

「え……」

 思わず口ごもり、声を出してしまった。

「ごめんね、愛してあげられなくて」

 そう言ってお母さんは、私のことを優しく抱きしめてくれた……

 私の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

「いってらっしゃい……私の娘。私の……自慢の……」

 お母さんの言葉の最後は、涙でかすれ上手く聞き取れなかった。

 抱きしめられる視界の隅に、利奈の姿が映る。利奈も、口元を押さえながら泣いていた。

 

 あぁ……そうか……

 

 初めて、分かった気がした。

 私は、愛されてなくなんか無かったんだ……

 自分という壁を作り、人を拒絶して。愛されようとしなかったのは私の方だった。利奈もお母さんも、私を見てくれていた。けど、私がそれを否定して見ていなかっただけだったんだ……

「ごめ……なさい……お母さん」

 初めて……心の底から言葉が出た。今までの、形だけの謝罪とは違う。本当の言葉。本当の気持ち……

「お母さんの……娘だから……大丈夫だよ、私」

 涙がとまらない。意識して笑おうとするが、できない。

 いつしか、私の声は嗚咽へとかわっていった。

 

 

 ――人は何故生まれてくるんだろう

 いつかは別れる……世界で

 

 たった一人で生まれて、たった一人で死ぬのに……

 何故、人は誰かを求めるのだろう……

 

 それはきっと……とてもはかなく小さな願い……

 大切な想いと、大切な誰か……

 

 人は、一人では生きてなんていけないから……

 だから、共に歩む誰かを求めるんだ――

 

 いつか別れがくるから……

 だからこそ、その人との出会いを……

 紡がれる想いを人は、大切にしていくんだ――

 

 願わくば……この想いが……

 この日々が……

 

 いつまでも続きますようにと……願って――

 

 

「行こうか、利沙」

「うん、お兄ちゃん」

 しっかりと握られた手に、お兄ちゃんのぬくもりを感じて、私たちは新しい一歩を踏み出していく。

 その一歩に一抹の不安を感じながらも、今は与えられた幸せに静かに喜ぶ。

 これから先、決して楽なものではないだろう。兄妹ということももちろんあるが、それ以上に世界は残酷だから……

 それでも、この人となら……

「大好きだよ、お兄ちゃん」

 微笑みを浮かべる私に、お兄ちゃんは少し戸惑ったような顔をしてから。

「俺もだ、利沙」

 同じように微笑みを返した――

 



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